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西 大 寺 剣 道 連 盟

会長 河本正巳

 

発足

 第二次対戦後の武道禁止の苦難時代を経た後、講和条約締結を機として剣道の公的再開の道が開け、昭和二十七年に岡山県剣道連盟が結成され、これに合わせるように当時剣道が活発であった倉敷武道館・水島武道館と平行して西大寺武徳殿において、岡山県剣道連盟西大寺支部として発足している。翌年の二十八年には、西大寺剣道連盟と名称を変更し、今日に至っている。

 

西大寺武徳殿

 

 昭和十三年当時上道郡の各町村の出費と寄付金及び大日本武徳会の補助によって総建坪一一〇.五坪で旧旭町に建築され、終戦後に国が没収し後に県の保健所となり、保健所・警察署の移転後西大寺市(昭和二十八年二月西大寺市政が施行)のものとなり正面玄関に武徳殿の大看板を掲げ、道場正面神棚には、「思無邪」の額(当時県知事・加藤武徳書・現在西大寺武道館に展示)を掲げ、柔道・剣道場として複活された。

 武徳殿も老朽化と近隣の騒音問題により、昭和五十八年に現在の岡山市立西大寺武道館の設立により、解体された。

歴史と変遷

 昭和二十七年当時の西大寺支部としては、武道愛好者を中心として剣道・柔道の初代会長として、当時剣道四段・柔道四段の有道武雄(福治・元警察署長)が就任し、副会長に寺尾正夫(金田・元農協組合長)、剣道師範に石原鶴太郎(下竹原・元岡山工業教員)・近成 弘(邑久郷・※岡田道場門下生・元中学岡山黌教員・佐賀師範講師)・片瀬康一(新地・元矢掛中学教員)・理事長に永田伊十郎(西大寺東・元警察官)、常任理事に塩見鉄夫(西隆寺・元西大寺高校非常勤講師)・福間六合丸(教員)・浦上祐正(西大寺上・教員)・岡崎義明(四谷)、理事に吉岡恒夫(北幸田)・奥田金一(浜)・近藤美可(教員)・島本武雄(水門町)・樋詰博(西大寺北)・石田武彦(光津)・・・等錚々たるメンバーで支部を立ち上げた。

 その他、近隣の企業の剣道愛好者として日本エクスラン工業の大河原幸雄(邑久)・山下宏(浜)、大蔵省印刷局(現・国立印刷局)の平田元拍(金岡)・中井肇(邑久郷)・森下頼芳(長船)氏が、また地区として日下茂・人部叶氏等若手が活躍していた。

 その後、昭和二十八年に剣道と柔道が独立し、新たに西大寺支部から西大寺剣道連盟として初代会長に近成 弘(昭和四十二年没・範士八段)が、副会長に浦上祐正(平成七年没・教士七段)・樋詰 博(平成六年没・教士七段)、理事長に塩見鉄夫(昭和五十四年没・教士七段)の新体制で西大寺武徳殿を拠点に多くの功績と成果を上げた。

 昭和四十二年近成範士の後任として、元・岡山県警察剣道師範の石原忠美(福治・京都武専卒・範士九段)(現在・全日本剣道連盟相談役・岡山県剣道連盟名誉会長)が就任し、西大寺剣道連盟を磐石なものに築き上げた。

 現体制は、石原範士の勇退(平成十二年名誉会長)後、顧問に石岡立之(松崎・教士八段)を、会長河本正巳(西片岡・教士七段)、副会長川口誠(益野・教士七段)、桜間建樹(天瀬・教士七段)、理事長久山雅生(西大寺中・教士七段)、事務局長三浦吉之(金岡東町・七段)、の体制で、高段者指導者を揃えて小・中・高の一体化、青少年の健全育成、生涯剣道を目指して邁進しているところである。

 

岡田道場(※邑久郷)

 

 邑久郡の剣道は、神崎村郷学所興志館武場、剣術師範岡田衛・岡田太郎に負うところもあったが、有終の美を済したのは福田村百田朝倉多吉の道場を講武館、太拍村邑久郷岡田義貞の道場を琢成館と名付く(両館共明治一九年設立)の両者であったと伝わる。  岡田義貞(通称・嘉兵衛)は、文政九年九月邑久郷に生れる。二四歳にして唯心流柔道、三六歳で関口玉心流剣道(佐藤雄太・・阿波藩士にて備前藩老日置氏の剣道指南に享受)

の免許を得て、柔剣道師範として備前藩の士族池田政輔に仕え、公退の余暇は地方後進の指導にあたる。(明治二九年八月没享年七一歳)

 義貞の嗣子義孝(幼名寅太・號湍谷)も剣道玉心流の師範、大日本武徳会岡山支部撃剣教師を勤めるとともに教育者として郷党を率い徳化の実を挙げた(大正五年八月没享年六十六歳)。門下生に近成弘(邑久郷・太拍村村長)が居た。

 その後、第一次世界大戦・日中戦争・第二次世界大戦と戦争が続き昭和二十年八月終戦後、剣道は軍国主義を助成するとの故を以て禁止され道場とも衰弱の途を辿った。

                               『邑久郡誌抜粋』)

 

稽古の変遷

 大人も子供も稽古のし易い時間帯として、昭和三十四年頃から従前の夕方の稽古から朝六時から一時間~一時間半の稽古に切り替えた。

風呂も父兄に左官屋が居たため、自前で五衛門風呂を作り、風呂炊き用の薪も家こぼし等の古木を集めて鋸で引き割り木を作ったり、日本エクスラン工業のご好意により石炭を頂き風呂を沸かしていた。

 それと同時にお米・野菜等は農家の先生が持ち寄り、お粥・味噌汁を作ってもらい(初代炊事依頼・金岡・兼崎弘子)稽古後に食事をしてそれぞれ学校に職場へと行く体制となる。勿論、漬物の大根は農家の先生が栽培収穫し大樽に数個漬け込んでいた。現在は、火曜・金曜日を夕方稽古(小・中学生)に変更し、その他は、六時半からの朝稽古を実施している。また、西大寺高校生は、授業後、毎日道場で稽古をしている。

 なお、昭和三十九年東京オリンピックを契機として、スポーツ少年団が結成されると同時に結団するともに剣道道場連盟へも加入し活動しているところである。

 

選手の活躍

 全国中学校剣道大会     西大寺中学団体優勝(昭和四十六年)

 同             西大寺中学団体優勝(昭和五十三年)

 全国高校総体(インターハイ)西大寺高校団体優勝(昭和五十二年)

 同             西大寺高校団体優勝(平成四年)

 同             個人優勝(昭和五十二年 平田佳弘)

 同             個人優勝(平成三年   稲垣恵理・旧大村)

 同             個人優勝(平成六年   岸本志津子)

 同             個人優勝(平成九年   小津野貴謙)

 同             個人優勝(平成十三年  大畑隼人)

 全日本大学女子剣道選手権  個人優勝(平成十四年  坪田祐佳)

 全日本女子剣道選手権    個人優勝(平成十四年  坪田祐佳)

 世界剣道選手権       個人準優勝(平成十五年 坪田祐佳)

 明治村剣道大会(全国八段選抜)個人優勝(平成十一・十二年 有馬光男)

 全日本剣道選手権      個人準優勝(昭和四十八年 有馬光男)

 全日本剣道選手権      個人三位(昭和四十四・四十七年 有馬光男)

 第十四・十五・十六回国民体育大会(昭和三十四年~三十六年)西大寺高校   

 第二十一回国民体育大会      (昭和四十一年)    西大寺高校

 第六十回国民体育大会(平成十七年)団体優勝(少年の部 西大寺高福森・湯浅)

 同 右               〃  (青年女子の部 坪田・稲垣)

その他全国道場対抗剣道大会準優勝(西大寺道場)

全国都道府県対抗剣道大会・中国五県対抗剣道大会等出場選手

 

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